スポンサーサイト 
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
ジャン・モネ 回想録 
フランスが舞台の架空戦記という事で、当時の歴史を勉強中なのですが
一番尊敬する人物が「欧州統合の父」とも言われるジャン・モネ氏です。
自分の架空戦記の登場人物の中でも一番好きな人です。
(伊織の下僕にしちゃって、怒られそうですがw)

ジャン・モネ―回想録ジャン・モネ―回想録
(2008/12/05)
ジャン・オメール・マリ・ガブリエル モネ

商品詳細を見る

最近ようやく上記の回想録を入手して(amazonに在庫無かったので紀伊国屋で)、
第二次大戦のフランス敗戦辺りまで読み進めたのですが・・・
この人の行動力と分析力、交渉力は本当に素晴らしいです。
彼は「政治家」では無く、良い意味でとても優秀な「ビジネスマン」だと感じました。

以下、フランス敗戦辺りまでの事を纏めてみました。
かなり長文なのでご注意下さい。

・少年時代
ジャン・モネは1888年生まれ、戦後の盟友ロベール・シューマンが1886年、
ド・ゴールが1890年とほぼ同じ年代のようです。
モネ家はコニャックを家業としており、ジャン・モネも長男として
若い頃から国際的な商取引に従事していました。

16歳(!)でシティ(ロンドン金融街)で働き、彼はここでフランス流の個人主義では無く、
国際社会における立ち回り、共通行動というものを学びます。
ここでの体験が彼の国際的視野に大きな影響を与えたようです。

18歳の時にはカナダやアメリカへ赴き、ここでも大きな仕事をいくつかこなしています。
おおらかな米大陸の、法秩序とは別次元の「信頼」によって成り立つ社会を見て
彼はここでも大きな影響を受けました。この「信頼」というキーワードは
至る所で使用されていて、交渉相手に受け入れられるには信頼が必要だという
彼の持論に繋がっているようです。
その後も、スウェーデン、ロシア、エジプトなど若くして多くの地に出張し、
商談をまとめて、その地域に合った個別の交渉の仕方を学びました。


・第一次世界大戦
モネの人生の転換点とフランス史への大きな関わりが1914年に訪れます。
人類史上初の総力戦となる、第一次世界大戦です。
イギリスの現実主義と、フランスの英雄主義の溝を肌で感じていた彼は
自分の為すべき事を自覚し、前例の無い行動を取りました。

何の後ろ盾も無い、大学も出ていない26歳の酒屋の若造が
事もあろうに、フランス首相ルネ・ヴィヴィアニに会いに行き、
連合国(英仏)の軍需物資調達を共通管理する組織の結成を訴えたのです。
家業の弁護士が首相の知人だったからとはいえ、凄い勇気と行動力だと思います。
またこの時の彼の考えが心に残りました。

「私は首相のみが決定できると考えた。だったらどうして彼のドアを叩かないのか?」
「まず考えを持つ。次に決める事の出来る人を探す。」


驚く事に彼の提案は受け入れられ、モネはロンドンで仏英の物資調達を調整する為
英国の友人達と奔走する事になります。
また、時のフランス経済大臣クレメントルが、良き理解者として
彼の後ろ盾になってくれたのが大きな助けになりました。
英仏の様々な役所と交渉し、しばしば役所内の上下関係を無視した為
モネはフランスの各省庁、特に軍需大臣ルシャールから嫌われ、
様々な嫌がらせや妨害を受けたそうです。
その様な経緯から、突如クレマンソー首相に呼び出された時
彼は自分の仕事を丁寧に説明しつつも、クビを覚悟して後任を探すよう
クレメントルに依頼していました。
しかし、クレマンソーはモネをクビにせず元の仕事に戻しました。
恐らく、彼の仕事の重要性を認めたのでしょう。

ここでモネがコートを着るのをクレマンソーが手伝うエピソードがあるのですが
「虎」のニックネームを持つクレマンソーのユーモア(?)がイメージとかけ離れていて
ちょっと笑ってしまいました。

コートを着る手助けをするクレマンソーを、モネが断ろうとすると
「まぁそう言わずに。我が家には召使いが居ないので・・・」


・国際連盟
終戦時、まだ30歳の若さだったモネの次の仕事は国際連盟での活躍でした。
1918年9月に彼はクレマンソー首相や米大統領ウィルソンに宛てて
連合国で経済連合を形成する事を勧める書簡を送りました。
その後、ウィルソン大統領主導で国際連盟憲章が作成され
国際連盟事務局の次長を決める時にクレマンソーからモネの名前が出ました。

若干31歳で国際連盟事務局次長に抜擢された彼は
ドイツ・ポーランド・オーストリア・チェコスロヴァキアといった諸国の領土問題を対応します。
またヴェルサイユ条約を差別に基づく悪のものとバッサリと断罪し、
ドイツの賠償問題について、現実的な解決法を模索していました。
しかしこれはフランス首相レイモン・ポアンカレの強力な反対にあい挫折しました。

「あなたの仰るのは債務額を負けるということか」
「負ける事ではなく、固定することです。限度が無ければ、債務とは言えません。
 私の言っているのは、ドイツを負担額の分からない債務から解放することです」
「それは絶対にダメだ。ドイツの債務は政治マターだ。
 私はこれを圧力を掛ける手段として考えているんだ」



・戦間期のビジネス
1923年、妹から家業の危機を伝えられたモネは国際連盟を辞職し
コニャック家業の再建を行います。これに成功すると戦前のように世界を飛びまわり
ワルシャワではポーランド政府の為に通貨問題に取り組んで
イングランド銀行、フランス銀行、アメリカ連邦銀行の総裁達を相手に交渉を行いました。
この時、彼を強力に手助けしたのがアメリカの優秀な弁護士で友人のジョン・ダレスでした。
その後、ダレスは第二次大戦後にアイゼンハワー大統領の国務長官として
強力な反共主義を元に冷戦時代を戦う事になります。

ルーマニアにおいても通貨安定交渉に尽力した後、
モネはニューヨークで大銀行家ジアニーニに出会い、バンクオブアメリカの副会長に納まり
サンフランシスコで働き始めました。未曾有の株価上昇で大きな儲けを得ますが
モネ41歳の時、1929年10月の暗黒の木曜日から始まった世界恐慌で儲けが全て吹き飛んでしまいます。
これを乗り切る為、グループの事業再編を勧めて銀行部門の独立を計画しますが
これはジアニーニに察知され、株主を味方につけた彼との権力争いに敗れてしまいます。
(のっとり失敗?結構えげつない事もしてますね・・・人妻との不倫略奪婚とか白状してるし)

1933年からは中国市場に赴いて3年程を上海フランス租界で暮らしました。
ここでモネは欧州人とは全く違う、中国人との付き合い方を学びます。

「彼らに信頼してもらう事が、彼らを理解する事よりはるかに重要だった。」

開発銀行を通じて中国の鉄道事業への投資を行いますが、
事業の許可を得る為に蒋介石や通訳の宋美麗夫人とも交渉を行っています。

「将軍(蒋介石)はあなたを気に入っている。
 彼はあなたにはどこか中国的なところがあると言っている」


中国時代の事は軽く触れられている程度ですが、三顧の礼的なエピソードがあったり
中々に中華な生活を送る日々だったようです。


・第二次世界大戦
以前、アンドレ・モーロワの「フランス敗れたり」でも指摘されていましたが
戦前のフランス空軍の状態は酷い物で、パイロットの数も戦闘機の保有数も絶望的でした。
1937年の国防委員会では「独空軍は好きなようにフランス上空を飛ぶ事が出来る」
と報告されている程でした。
この時期にモネはダラディエ首相・国防相と出会って友人となります。
モーロワは友人のレイノー首相を評価してダラディエを批判していましたが、
モネは友人のダラディエを評価し、レイノーには懐疑的だったようです。
後述の航空機輸入計画に、レイノーは大蔵(財務)大臣として反対していたので
その影響もあるのでしょうか。

ミュンヘン会談後、ダラディエはモネをアメリカのルーズベルト大統領の元に派遣します。
ルーズベルトも航空機の大量生産が無ければ英仏が危ないという考えでいたので
会談はスムーズに行われ、フランスの大量発注が計画されます。
中立法のせいで米議会にも秘密だった)

しかし国内外の反対で航空機調達の計画は上手くいきませんでした。
国内では外貨準備不足を理由にレイノー大蔵大臣が反対し、発注手前までいくものの
今度はアメリカ空軍司令官のアーノルド将軍に、フランス人に最新鋭機は見せられないと
拒否されてしまいます。ルーズベルトの介入で何とか計画が進むかに見えましたが
購入対象の最新鋭機が試験飛行中に墜落し、フランス人が乗っていた事が新聞に暴露され
米議会や米国内を巻き込む騒動に発展してしまいました。

1939年8月末、ポーランド危機が迫り戦争が避けられなくなると
モネは前大戦と同じく、仏英共通の物資調達組織が必要だとダラディエに訴えます。
ダラディエは英首相チェンバレンに彼を紹介し、
モネは再び仏英の物資調達の調整の為にロンドンを訪れました。

しかし奮闘空しく、英仏連合軍はドイツの電撃戦の前に大敗北を喫し、パリも陥落します。
ここでモネは英首相チャーチルに宛てて、「英仏統一」という題の書簡を送ります。
英仏が連合国家になれば、フランス全土が占領されても戦いは継続出来る。
この主張をチャーチルは否定しますが、後で議会にかけたところ
驚きなのですがほぼ全ての政党が熱狂的に賛成したそうです。
これを受けてチャーチルも考えを変えますが、フランス政府に提案を打診する頃には
すでにレイノーは辞任し、後任のペタン首相はドイツへの単独講和を選んでしまいました。

この英仏統一案は「フランス敗れたり」だとチャーチルの提案という事になっていますが
実際に原案を考えてチャーチルを動かしたのはモネだったようです。

この後、ロンドンに逃れて来たド・ゴールと会って話し合うなど
まだまだ歴史は続くわけですが、さすがに長すぎるのでこの辺りにしておきます・・・


戦前~戦中だけでも、これだけ濃い人生と様々な歴史上の偉人との友情を育んできた
ジャン・モネ氏ですが、戦後もド・ゴール、アデナウアーケネディといった人物と
関わっていくようです。シューマン宣言の辺りも気になりますね。


本当にこれだけの大人物がフランスの閣僚(大臣)経験が無いとかどういう事なの・・・
そのせいなのか、HoI2の大臣にも登場しませんね。
軍需大臣なら「管理の天才(IC+10%)」、外務大臣なら「調停の達人」になるんでしょうか。
盟友シューマン氏は一応その両方で登録されているようですが。


もしここまで全部読まれた方が居ましたら、お付き合い頂きありがとうございます。
さすがにこれだけの長文記事は二度とやりませんです。つ、疲れたw


モネとシューマン
最後にジャン・モネ(左)とロベール・シューマン(右)
多分、シューマン宣言(1950年5月9日)前後の写真でしょうか?

 
死人も閣僚候補に並ぶHoI2なんですがねぇw>どういうことなの
やっぱ、議員や党人優先なんじゃないでしょうか?
フランス降伏時に彼と行動を共にしていたサン=ジョン・ペルスこと
アレクシス・レジェも閣僚候補にいないですしね。
彼にしたって外相候補にいてもいいだろ!とか思ってしまいます。

個人的には、自動車業界におけるモネの先駆者wたるフランソワ・ルイドゥーが
ヴィシーの閣僚候補にいないのはまだ我慢するとしても
ラヴァルやフランダンがヴィシーの首相(正確には副首相?)になれないのはおかしいだろ!とww

英仏合邦については6月6日がモネがチャーチルへ両国空軍の統合を提言、
さらに進んで国家の統合に関する原案提示が14日。
内閣の了承の下、これをチャーチルがフランス政府に持ち込んだのが16日ですが
すでに休戦派が大勢を占めていたフランス側では「はぁ?なにいってんの?」的な
扱いだったようですね。
まぁ、21世紀からは「欧州統合の先駆け」と評価されていますが
当時は「英国の為に仏軍を戦わせ続けようとする窮余の一策」にしか
取られなかったのかもしれません。
実際、そういう意味合いも絶無だったとはむにゃむにゃ……ww
 
自分の行動力が低いためかこういうパワーに溢れた人は羨ましいですなあ。

> 妹から家業の危機を伝えられたモネは国際連盟を辞職し
ここ、国際連盟<家業、ここだけでもう大物感w
 
>議員優先?さん
サン=ジョン・ペルスさん、史実の外務次官だった方ですよね。
それから閣僚データ見たんですがヴィシーの首相候補にラヴァルいるっぽいです。
(SMEPだけなのかな?)

モネは目立たないけど、色んな所で影響力発揮してるみたいですねー。
ルーズベルトの「民主主義の兵器庫」の言葉も、モネが最初に言った言葉が
演説原稿に採用されたからとか何とか・・・

回想録の中でも仏敗戦前後の当時、ドイツと英仏+米の物量をひたすら計算して
どこまで協力すれば(生産すれば)勝てるかって事しか、頭になかったような感じですね。
欧州統合という政治的・理念的な思いよりは、「だって協力しないとドイツに勝てないでしょ?」
という、身も蓋も無い雰囲気をひしひしと感じましたw


>てんやくP
本当にこの人の行動力は凄いですよね、尊敬します。
常に数値と格闘して分析結果を突きつけてプレゼンするやり方が、
政治家というよりコンサルっぽい感じで面白いです。

国際連盟<家業
尊敬する父親を助けたいって気持ちも結構あったようですけど、
躊躇無く後者を選ぶ辺りが、政治家よりはビジネスマンだなーと感じるところですねw
 
ラヴァル、首相候補には居るみたいですけど
ヴィシー成立時にダルランが政府首班になるよう
設定されてるもんで結局は出番ないんですよね。
戦後は「全部ラヴァルのせい」にされちゃった上
ゲームでも出番なし。可哀相すぎますw
ファイルのいじり方さえわかれば……

本編のモネはこれから産業界の取りまとめに
奔走する日々なのでしょうね。
伊織は無茶言うだろうし大変だろうなぁ……
とまれ、新作をお待ちしております。
 
ああ、ダルラン提督が設定されてたんですか。
ヴィシーイベントの閣僚IDいじればラヴァルに出来そうですね。

モネも伊織の罵倒をエネルギーに頑張ってくれるでしょうw
次回鋭意作成中ですので、今しばらくお待ち下さい~

管理者にだけ表示を許可する

トラックバックURL
http://tanisip.blog58.fc2.com/tb.php/21-f8799950

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。